WRCの歴史
WRCの始まり
世界最古の自動車レースとされるのは、1894年の「パリ~ルーアン・トライアル」といわれている。優勝したのはプジョーで、エンジンはダイムラー製。
ラリーの始まりといえるのは1900年にイギリスで行なわれた「1000マイル・トライアル」とされている。
中世の騎士が領主の突然の招集に対し、いかに早く到着するかを競ったことが起源といわれるラリーは、時代が変わりモータースポーツへと変遷していった。
ラリーが自動車競技として確立したのは、1911年のモンテカルロ・ラリーが最初になる。その後、約60年間ほどはヨーロッパを中心に各国でラリーが行われていた。
WRCの前身となるインターナショナル・チャンピオンシップが1970年~72年に行なわれ、これを元として73年からFIA(世界自動車連盟)が世界選手権としてワールド・ラリー・チャンピオンシップ(WRC)をスタートさせた。
この世界選手権は自動車メーカーがチャンピオンとなるマニファクチャラーズ選手権として始まり、6年後の1979年からドライバーにもチャンピオンの称号が与えられるドライバーズ選手権との2本立てで行われるようになった。
ちなみにF1はドライバーの選手権としてスタートし、のちにコンストラクターズ選手権※が加えられるという、WRCとは逆の経路をたどっている。
世界選手権以外のラリーは、アジア・パシフィックラリー選手権(APRC、通称アジパシ)、ヨーロッパラリー選手権(ERC)、中東ラリー選手権などの地域ごとのラリーがある。また、イギリスラリー選手権(BRC)、フランスラリー選手権(FRC)、イタリアラリー選手権(IRC)など)、国内選手権を開催する国は20ヶ国以上に及ぶ。
日本では1955年のアルペンラリーが始まりといわれ、現在では全日本ラリー選手権を頂点として、数々のラリーが開催されている。
北米ではアメリカ、カナダ、メキシコの3ヶ国にまたがる北アメリカラリー選手権(CNAR)が2002年度からFIAのレギュレーションの元で始まった。SCCAプロラリー選手権なども開催されている。
おおむね自動車の生産が多い国(アメリカ合衆国、日本)ではラリーはあまりポピュラーではなく、むしろ自動車生産が少ないか、あるいはほとんどしていない国(アルゼンチン、メキシコ、フィンランドetc)の方がラリーの人気が高い傾向があるというのは、興味深い現象だ。
アメリカや日本では、ラリーは見るものではなく自分で参加するためのものだ。ヨーロッパの国でも、ドイツはラリーが始まったのは比較的遅く、WRCに昇格したのは02年のことである。
※WRCはトヨタ、フォードのような自動車メーカー(=manufacturer)に対してタイトルが与えられ、F1はウィリアムズやマクラーレンなどマシンの製造者(constructor)に対してタイトルが与えられる。
1973~1982年 グループ4の時代
WRCが始まった1973年、FIAは車両規定をグループ1からグループ8まで規定していたが、WRCは連続する24ヶ月に生産台数が1000台以上のグループ2、同じく400台以上のグループ4によって競われることになった。
WRC黎明期の名車として、筆頭に挙げられるのはアルピーヌ・ルノーA110だろう。リアエンジンのコンパクトで美しい車体を持つこの車は、初戦モンテカルロを制し、通算6勝をあげている。
同じく73年の第4戦サファリ・ラリーで、日産240Z(フェアレディZ)が日本車としては初めてWRCで優勝した。以来、WRCにおける日本車の優勝数は100回を楽に越える。
トヨタがWRC初勝利をあげたのも73年、アメリカのプレス・オン・リガードレスでのことだ。この勝利はトヨタのワークスチームによるものではなく、プライベートチームの参戦で、ラリー自体も参加者のほとんどがアメリカ人かカナダ人というものだった。
トヨタのワークスチームとしては、75年の1000湖(フィンランド)ラリーで最初の勝利をあげる。これは同時に、ヨーロッパラウンドにおける日本車の初優勝でもあった。
74年、WRCに参戦してきた三菱ランサーはサファリでいきなり優勝する。のちにWRCシーンを席巻するランサー・エボリューションの萌芽がここにあった。
日産はサファリに圧倒的に強く、79年から82年まで4連勝している。道なき道を走る=ラリーという観念が日本人に植え付けられたのはこの時代だろうか。
74年サンレモラリーでは、"成層圏"という名を持つランチア・ストラトスHFがデビュー・ウィンという強烈な登場を果たす。
全長3710ミリ、950kgのコンパクトな車体に280馬力を発生する2.4リッターV6DOHCエンジンをミッドシップ・マウントしたこの車※は、ラリーに勝つために生まれ、まさに突き抜けたデザインと性能を併せ持っていた。
ランチア・ストラトスは72年に登場し、最後に勝ったのが81年だ。単一のモデルがこれほど長い間戦闘力を保っていた例は他にない。通算勝利は17回を数える。
ストラトスの登場によって、それまでは普通の車を改造するだけで誰でも優勝するチャンスがあった、"古きよき時代"のラリーは様相を変えていった。
※ ランチアはグループ3に公認されているフェラーリ・ディーノのV6エンジンやパワートレインを流用し、ボディを“追加装備”にしたストラトスを400台生産して公認を取っている。こういった経緯があるので、エンジンを積んだのではなく、ディーノのパワートレインにストラトスのボディを纏わせた、というほうが正確である。またこのような改造を認めたため、レギュレーションは"なんでもあり"になっていってしまい、FIAは混乱したレギュレーションを正すため車両規定をグループBに移行することになる。
1983~1986年 グループBの時代
83年からFIAはWRCの車両規定をグループ4からグループBに変更した。このグループBに属する車は400馬力を越えるエンジンを持つ、市販車とはまったく関係のないラリー専用車として開発され、数々の名車を残した。
ランチア・ストラトスの後継として、これも名車と名高いランチア・ラリー037が82年に登場する。"ラリー"という「そのまんま」の名前を持ち、 325馬力を搾り出すスーパーチャージャー付きの1955cc直列4気筒エンジンを、ピニンファリーナによる美しいボディに搭載したこの車は、82年中盤のツール・ド・コルスでデビューするが、この年は1勝もできなかった。
翌83年、ランチア・ラリーは5勝をあげマニュファクチュアラー・チャンピオンを獲得する。しかしこの前後の年は4輪駆動のアウディ・クワトロがチャンピオンを獲得しており、時代は確実に4WDへと流れてゆく。
時代は四輪駆動へ
1980年サファリ・ラリーで、スバルがWRCで初めて4輪駆動車(Subaru Hatchback 4×4)を走らせ、総合18位・グループ1で優勝する。
翌1981年には、2.1リットルSOHCターボエンジンをフロントに積んだアウディ・クワトロがモンテカルロでデビューし、いきなり2輪駆動車を遥か彼方に置き去りにするパフォーマンスを見せつけた。
1990年、電子制御トルクスプリット式4WDを搭載した日産スカイラインGT-Rがベルギーのスパ・フランコルシャン24時間耐久レースに出場し、『あんなものが24時間も持つわけがない』という大方の批評を尻目にグループNで優勝、翌91年にはグループAで総合優勝した。
その10年も前に、トップカテゴリーの4WDカーをWRCに持ち込んだアウディを、他のメーカーがどういう目で見ていたかは想像に難くないが、モンテカルロ・ラリーがスタートすると、たった3つのSSで後塵を拝するどころか、1分以上も差をつけられるという現実を見せつけられることになった。
このラリーでアウディはクラッシュしリタイアしてしまったが、続くスウェーデンで初勝利。翌82年はマニュファクチュアラータイトルを獲得する。
ランチア・ラリーは通算6勝をあげたが、2輪駆動では4WDに歯が立たなくなり、後継デルタS4に道を譲ることになる。
アウディ・クワトロがもたらした4WD革命はその後のラリーカーを一変させ、それ以降WRCのトップ・カテゴリーには4WD車が君臨することになった。
タイヤひとつにつき150馬力が限界と言われていたこの時代、2輪駆動車では300馬力以上あってもタイヤがパワーを路面に伝えきれないため、エンジンの高出力化はさほど進まなかった。しかし四輪駆動が実用になり、理論上600馬力まで対応できるため、この後ハイパワー・エンジンの開発が急速に行われることになっていく。
歯止めのないパワー競争と、続発する悲劇
フルタイム4輪駆動のアウディ・クワトロ、ミッドシップエンジンのランチア・ラリー037。84年、この両者の利点を合体させたミッドシップ・4WDのプジョー205ターボ16が登場する。
さらに85年にはミッドシップ4WDにターボチャージャーとスーパーチャージャーを搭載した究極のモンスターマシン、ランチア・デルタS4が最終戦RACでデビュー・ウィン。
エンジンの出力は500馬力に達し、パワー・ウェイト・レシオが2㎏を切り、0→100㎞/h加速は当時のF1よりも速かったというグループBマシンの進化は、歯止めがかからなくなっていった。
パワー競争に明け暮れたグループBマシンは、そして人間が制御できる限界を越え、死亡者が出る事故を続発させてしまう。
85年ツール・ド・コルス、ランチア・ラリー037を駆る名手アッティリオ・ベッテガが立木に激突して死亡。ふたつのラリーを挟んだ後のアルゼンチンではアリ・バタネンがプジョー205ターボでクラッシュ、瀕死の重傷を負う。
翌年86年ポルトガルでは、WRC史上最悪の事故が起こってしまう。ヨアキム・サントスの駆るフォードRS200が観客に突っ込み、4人が死亡、20人が負傷するという惨事となってしまった。
WRCではないが、ドイツで行なわれたヘッセン・ラリーでマーク・スレール※のRS200が時速200kmでコントロールを失いコース脇の木に激突。マシンは一瞬で炎上し、コ・ドライバーは死亡。ドライバーのスレールは幸運にも一命を取り留めたが重傷を負い、ドライバーとしてのキャリアは絶たれてしまった。
そして今も語り継がれる86年コルシカのSS18、不世出の天才といわれたヘンリ・トイボネンのドライブするランチア・デルタS4はコースアウトして炎上。ヘンリとコ・ドライバーのセルジオ・クエストは帰らぬ人となる。
ヘンリの事故の2日後、FIAは86年限りでグループBの廃止を決定、翌年からはグループAの時代へと変わった。
通算23勝のアウディ・クワトロ、通算16勝のプジョー205など、数々の名車を生み出したわずか4年間のグループB時代は、間違いなくWRCの黄金期でもあった。しかしその代償は、決して安くはなかったのだ。ランチア・デルタS4は86年には4勝をあげたが、わずか1年でその役割を終えた。
実はグループBの上位にグループSというカテゴリーが用意されていた。ランチアはすでに1.8リットルから600馬力を叩き出すエンジンを開発していたし、トヨタもミッドシップカーのMR2を4輪駆動化し、500馬力のエンジンを積んだ試作車を15台製作していた。しかしグループBの終焉と共に、グループSカーは幻と消えてしまった。
※マルク・スレール(Marc Surer)1851年スイス生まれの元F1ドライバー。名前の日本語表記がマーク・シュアーなど複数ある。
1987~1996年 グループAの時代
少量生産(規定では200台以上の生産で参加可能となる)のグループBは、大量生産で本領を発揮する日本の自動車メーカーにとって苦手なカテゴリーだった。グループB時代に勝利をあげている日本車はセリカ・ツインカムターボだけである。
グループB時代が終わり、代わってWRCのトップカテゴリーとなったグループAは、年間の生産台数が5000台以上(93年以降は2500台に変更)という、日本車にとっては得意なカテゴリーとなった。
勝つためにはターボ+4WDが必須、しかしこれを年間5000台売るのはヨーロッパのメーカーにとっては至難の業だったのだ。ランチアはデルタ4WDターボの生産を開始したが、プジョーは撤退してしまう。
ヘンリ・トイボネンの死からわずか半年の準備期間で、グループAはスタートする。グループBに比べると200馬力以上も少なく、200kgも重い車両で争われるグループAは魅力に欠け、WRCの人気に翳りを落とすのではないか、と心配もされた。
幸いなことにそれは杞憂に終わり、新規に参加するマニュファクチュアラーもあり、グループAの時代が始まった。
500馬力のグループBより300馬力のグループAのほうが速い?
グループBマシンがパワー競争に明け暮れた反省を踏まえ、グループA(とその発展形であるWRカー)は、エンジンが吸い込める空気の量が制限されており、ある程度以上の馬力は出すことができない。
しかしタイヤやアクティブデフに代表される駆動系の改良がグループA時代に急激に進み、少ないパワーをより効率的に路面に伝えられるようになり、同じコースを走ったときのタイムは200馬力も少ないグループAやWRカーのほうが速くなった。
日本車の時代が到来
87年から92年までの6年間は、マニュファクチュアラー・チャンピオンをランチアが6連覇するという偉業を成し遂げた。
たった238馬力しかなかったにもかかわらず、コンパクトで軽量なボディを生かして圧倒的な強さを誇ったランチア・デルタHF4WDは、デルタHFインテグラーレ、デルタHFインテグラーレ16V、デルタHF・インテグラーレ・エヴォルツィオーネへと4度の進化を遂げ、単一の車種としては最多の通算46勝をあげている。
また87~88年にかけて6連勝するなどして活躍した。
88年、日産は2輪駆動の200SX(シルビア)でコートジボアールを制した。これは現在のところ日産のWRCでの最後の優勝となっており、パルサーで一時期復活を賭けたものの失敗。マイクラ(マーチ)でF2カテゴリーを細々と走っていたが、98年にWRCから撤退してしまう。
もともとグループAカー規定に合っていたマツダ323(ファミリア)は、87年スウェディッシュ・ラリーでWRC初優勝を飾った。マツダは89年のスウェディッシュとニュージーランドも制したが、1992年にWRCから撤退したためマツダのWRCにおける優勝は現在のところこの3回となっている。
マツダが2勝をあげた89年、三菱も2勝、トヨタも1勝をあげる。そして翌90年からは、日本車の怒濤の快進撃が始まったのだった。
日本車がWRCを席捲
90年、トヨタ5勝、三菱1勝。91年、トヨタ6勝、三菱2勝。92年、トヨタ5勝、三菱1勝。
93年、トヨタ7勝、スバル1勝。トヨタは日本車初のマニュファクチュアラー・チャンピオンを獲得。
92年でランチア・ワークスが撤退し、93年はジョリー・クラブが事実上のランチア・ワークスとして参戦するが、この年をもってランチアはWRCから撤退してしまう。94年からの参加ワークスチームは、トヨタ・スバル・三菱の日本メーカー以外はフォードのみという時代になった。
その94年も、トヨタが連続してマニュファクチュアラー・チャンピオンを獲得。
95年、スバルがマニュファクチュアラー・チャンピオンを獲得。全戦で日本車が優勝。
しかし95年第7戦(全8戦)のカタルニアラリー終了後、トヨタがレギュレーション違反のリストリクターを使用していたことが発覚。部品単体では検査を通るが、車両に取り付けて負圧がかかると隙間が開き、吸気量が増えるという巧妙な構造だったため、極めて悪質な違反として95年の全ポイントを剥奪され、さらに翌96年は1年間出場停止という厳しい処分を受けた。
96年、97年もスバルがマニュファクチュアラー・チャンピオンを獲得。
98年は三菱がマニュファクチュアラー・チャンピオンを獲得する。
WRカーが登場する97年以降も日本のメーカーの快進撃は続き、2000年にプジョーがタイトルを奪還するまで日本車の時代が続いた。
FIAの混乱
この時期、FIAはWRCを大きく変革させようとした。94年には将来的にWRCから4WDとターボを廃止することと、98年以降はF2マシンで争われることが決定した。
94年からF2(フォーミュラ2)がワールド2リッターカップという名称に変わり、スウェディッシュなど3戦がF2単独開催となった。
95年からは世界選手権としてW2L(2リッターワールドカップ)が新設され、95年と96年はモンテカルロも含め年間5戦ずつがW2Lの単独開催となった。
全戦結果のページを見てもらうと、たとえば96年にモンテカルロ・ラリーの記載がないが、これは開催されなかったわけではなく、W2Lイベントとして開催されていたためである。
いったんは世界選手権に格上げされたW2Lだが、トップドライバーの大半がほとんど興味を示さず、中には「F2の選手権に出場するくらいなら引退したほうがマシ」というドライバーも出る始末。マニュファクチュアラーも参戦に消極的。まったく盛り上がらなかった。
4WDを廃止するというFIAの94年の決定は95年に早くも覆され、W2Lは97年から2リットルワールドカップに格下げとなる。
1997~現在 WRカーの時代
95年にFIAが発表した4WDキットカー構想は、ワールドラリーカー(WRカー)と名称を変え、市販車がノンターボ2WDのラインナップしか持たなくても、4WDターボカーに改造した車種で参戦できることとなった。
97年、新型WRカーでスバルが3年連続となるマニュファクチュアラーチャンピオンを獲得する。
98年、三菱がマニュファクチュアラー・チャンピオンを獲得。この年も勝ったのは日本車のみだった。三菱はあえてグループAのまま参戦し、タイトルを獲得した。三菱はグループAにこだわり、しかもそれで少なくない勝利をあげていたのだが、WRカーへの移行の遅れはその後、他のマシンに大きく遅れを取ることになる。しかし98年後半から99年前半にかけて、三菱はランチアと並ぶ6連勝を達成した。
トヨタは95年のリストリクター事件で1年間出場できなかったが、97年にTTEとしてではなく、プライベーターとしてスポット参戦。98年にカローラWRCを引っさげて復帰を果たし、99年はマニュファクチャラー・チャンピオンを獲得する。しかしこの年をもって、トヨタはF1に参戦するためWRCから撤退した。
2011年からはエアリストリクター径33mmの1600cc直噴ターボエンジンを搭載したS2000車両を新WRカーとした。
2017年からエアリストリクター径が36mmに拡大され、エンジン出力が300馬力から380馬力に増加する新規定が決定。さらに最低重量が25Kg引き下げられ、安全性向上の観点からドアパネルの変更も認められるようになった。
ヨーロッパ車の復興と日本車の衰退
ヨーロッパが発祥の地であるWRCで、ヨーロッパの自動車メーカーもただ手をこまねいて日本勢の活躍を見ていただけではなかった。
95年にプジョーはフランス選手権のため2リットル自然吸気エンジン・前輪駆動のターマック用の306MAXIを製作した。97年にプジョーは306MAXIをWRCのターマックイベントに実戦投入。優勝はなかった(最上位は2位)が、4WDターボのWRカーと互角に渡り合い、追い掛け回して4WD勢に少なくない冷や汗をかかせた。
99年にはシトロエンがレギュレーションの利を生かし、WRカーと同等の300馬力(一説には330馬力以上)のエンジンをWRカーより270kg以上軽いボディに押し込み、ターマックに特化したFFのクサラ・キットカーを製作。ターマック戦のみに絞って出場し、 並みいる4WD勢を抑えて2勝をあげ、4WDターボが"絶対条件"であったはずのWRCに風穴を開ける。
306MAXIで手応えを掴んだプジョーは4WDターボの206WRCを99年にデビューさせる。
2000年から02年はプジョーがマニュファクチュアラー・チャンピオンを3年連続で獲得。長らく続いた日本車の天下を止めた。
シトロエンは、レギュレーションでFFキットカーの優位性がなくなった2001年から4WDのクサラT4でスポット参戦を始め、クサラWRCでフル参戦初年度の2003年にマニュファクチュアラー・チャンピオンを獲得し、05年まで3年連続でマニュファクチュアラー・チャンピオンを獲得した。
21世紀に入ると日本車の減速具合が徐々に目立ち始めた。最初の兆候は三菱ランサーの明らかな戦闘力の低下だった。
ライバルが軒並みWRカーにスイッチする中、改造範囲に限界のあるグループAカーを長く続けすぎたため、たとえば2000年フィンランドではトミ・マキネンをもってしてもプライベーターのカローラWRCの後塵を拝する結果となるなど、完全に手詰まりとなった。
さらに2001年中盤から投入した新型ランサーWRCも熟成不足を露呈。5回目のドライバーズチャンピオンを狙い前半戦は最後のグループAランサーでコンスタントにポイントを重ねていたマキネンも、後半戦は完全に失速。シリーズ3位に終わり、翌2002年はスバルに移籍する。
2002年のランサーWRCも散々な結果で、SS6位以内にすら一回も入れないというラリーが続く。開発と平行した参戦は無理と判断した三菱は03年にWRC活動を休止。一年間マシン開発に専念していたため、03年の日本車の参戦はスバルのみだった。
04年に三菱はWRCに復帰するものの、リコール隠し問題が発覚。このため、ドイツを最後にシーズン途中で参戦を休止したが、05年には再度の復帰を果たす。しかし2006年のワークス活動は再び休止となり、2008年以降の復帰を目指すと発表したものの、事実上の撤退状態。参戦を継続していたダカールラリーも2009年をもって終了した。
2003年、スバルのペター・ソルベルグは念願のドライバーズチャンピオンを獲得する。2位のセバスチャン・ローブ(シトロエン)とのポイント差はわずか1点。 スバル・インプレッサWRC2003は鬼才クリスチャン・ロリオーが手掛けた2000型を発展させたもの。2004型から元F1のデザイナーを迎え、大幅に刷新した設計から歯車が狂い始める。 2004年、ローブがドライバーズチャンピオンを獲得。2位はソルベルグだったが、獲得ポイントは大差がついていた。
2005型インプレッサは全幅の拡大からバランスが悪くなり、真っ直ぐに走ることすらままならないという欠陥をかかえてしまい、シーズン3勝にとどまる。3勝目は死亡事故が起こったGBで、セバスチャン・ローブから無理矢理手渡された勝利。この勝利がスバルとソルベルグの最後の勝利になるとは、まだ誰も予想しなかったかもしれない。
2006、2007年モデルもパフォーマンスはなかなか向上せず、満を期して投入した新型インプレッサWRC2008年がデビュー戦アクロポリスを2位で飾り、シーズン終了までコンスタントに完走を続け今後の期待を持たせたが、景気の悪化から2008年を最後にスバルがWRCから撤退を発表。
三菱の最後の勝利は2001年、スバルは2005年。次の日本車の勝利まで、12年待つことになる。
2006~07年はフォードがマニュファクチュアラーズタイトルを獲得、2008~12年は5年連続でシトロエンがマニュファクチュアラーズタイトルを獲得。
2013年から16年は23年ぶりにワークスで参戦したフォルクスワーゲンが4年連続でマニュファクチュアラーズタイトルを獲得した。
2014年から韓国のヒュンダイがWRCにワークス参戦復帰。ヒュンダイは2000年から参戦するも資金難で2003年シーズン途中で撤退。違約金として100万ドルの罰金を科せられたが支払ったという報道は無いようだ。 2014~16シーズンで3勝を記録している。
2017年は18年ぶりにトヨタ・ワークスチームがWRCに復帰。2017年第2戦スウェーデンで復帰2戦目にして勝利をあげる。
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