WRC(World Rally Championship、世界ラリー選手権)とは

2019年11月23日

WRC...FIA World Rally Championship (FIA世界ラリー選手権)

FIA(国際自動車連盟)が公認する四輪モータースポーツの世界選手権。
市販車をベースに製作した競技車両を使用し、公道でタイムを競う。

世界で初めて自動車ラリー競技が行われたのは今から100年以上前、1911年のモンテカルロ・ラリーである。それから約60年後、ヨーロッパを中心に国別に行われていたラリーをFIA(国際自動車連盟)がまとめ、1973年から世界ラリー選手権(WRC)として開催されるようになった。

現在はトップカテゴリー(WRC)の他に、WRC2、WRC3、JWRCという世界選手権がある。WRC2と3は以前のプロダクションカー世界ラリー選手権を再編したもの、JWRCは年齢制限のある登竜門的な選手権となる。

F1やスキーのワールドカップなどと同じように、WRCも世界各国を回って行なわれる。世界選手権になった初年度の1973年は年間13戦、以降年間8戦~14戦が行われていたが、2004年から07年は年間16戦、2008年は年間15戦、2009年は年間12戦になり、2010年以降は年間13戦となっている。

開催国によって使用される道路はコンディションが異なり、舗装路や未舗装路、積雪路などさまざまである。

ひとつのWRCイベントで競技車両が走る範囲は広く、総走行距離は短いもので1000km程度、長いもので2000kmほどになる。ラリーの開催期間は通常金曜日から日曜日までの3日間。
その中でSS(スペシャルステージ・以下SS)と呼ばれる競技区間(全開走行してタイムを計測する区間)が12~25ヶ所ほど設定される。
SSの合計距離は350km前後になり、その走行時間の合計がいちばん短い選手が優勝となる。

クローズド・サーキットで行われるレースでは、レースカーに乗るドライバーは一人だけだが、ラリーではドライバーの他に、コ・ドライバーと呼ばれる道案内役の選手が同乗し、二人一組で競技を行う。
また、サーキットのレースは一斉にスタートするが、ラリーでは一定時間おきに1台づつスタートしていく。

優勝したドライバーには10ポイントの得点が与えられ、2位以下は8点、6点、5点、4点、3点、2点、1点と8位までの選手にポイントが与えられる(2005年)。
1年間を通して獲得したポイント合計が一番多い選手がシリーズチャンピオンとなる。

マニュファクチュアラー(自動車メーカー)は、ひとつの自動車メーカーにつき1チームが選手権登録でき、1年間の全戦に出場する義務を負う。ひとつのイベントで2台をポイント対象としてエントリーし、1位から8位までポイントが与えられる。
こちらもドライバーズ選手権と同じく、1年間のポイント合計がいちばん多いチームがマニュファクチュアラーチャンピオンとなる。

WRCには日本の自動車メーカーのほとんどが参戦し、特に90年代後半のWRCは日本車の独擅場といってよいほどシーンを席巻していた。
2005年シーズン終了時点で、WRC全408戦中、日本車は通算136勝をあげている。
これだけの成績をあげながら、日本でWRCが開催されたことはなかったが、WRC創設32年目の2004年、日本で初めてのWRCが北海道で開催された。

なお、 多くの日本人が「ラリー」という言葉で思い浮かべる「パリ・ダカールラリー」は、「クロスカントリー・レイド」や「ラリー・レイド」などと呼ばれる、WRCとは別カテゴリーの競技である。
パリ・ダカール並みに有名な「サファリ・ラリー」は、WRCのイベントである。

イギリスは公道での自動車レースは基本的に禁止なので、林道や私有地などで行われる。

『rally』の意味

ラリーも自動車レースの一種なので、『レース』と呼ばれていたとしてもさほど違和感はない。
ではなぜ『レース』ではなく『ラリー』なのか。

テニスや卓球で打ち合いが続くこともラリーという。『rally』という単語には、元いた場所に再び戻るという意味がある。
『レース』とは呼ばれず『ラリー』と呼ばれる所以は、「出発地点に再び戻る」ことを、競技の柱のひとつにしているところにある。

ラリーは出発地点から一般車両に混じって移動区間(ロードセクション)を走行し競技区間(スペシャルステージ:略してSS)に向かう。
SSの後はまた移動区間を走ってゴールに向かうのだが、たとえ最終のSSを1位でゴールしても、最後の移動区間で車が故障したりして出発地点に戻れなければ、リタイアになってしまうのだ。

「ラリー」を定義すると、定められたコースを指示に従って走り、出発地点に再び戻る、ということになる。
基本的にはこのような解釈でよいと思うが、日本ではWRCよりもずっと有名な、「パリ・ダカールラリー」のようなクロスカントリー・レイド競技は、ラリーという名称こそ付いているものの、スタート地点とゴールが極端に(パリ~北京ラリーのように離れている。

WRCのようなラリーでも、スタート地点とゴール地点が異なる(パリ~ダカールほどは離れていないが)イベントは珍しくないので、「元いた場所に戻る=ラリー」という定義は必ずしも全てに当てはまらない。
「ラリー」という言葉は「集会」や「再会」という意味でもあるので、スタートして、ゴール地点で再会しましょうという意味でとらえればよいかもしれない。

ラリーは"コンサントラシオン"でシーズンの幕を開けていた

WRCはほぼ毎年、モンテカルロ・ラリーでシーズンの幕を開ける。
そしてモンテカルロ・ラリーは伝統的に、コンサントラシオン(集結)と呼ばれるスタート方式から始まっていた。

コンサントラシオンとは、モンテカルロ・ラリーに出場する競技車が、ヨーロッパや北アフリカの各地に設定されたスタート地点からモナコまで、1000kmから2500km前後に及ぶ距離を走って集結することをいう。

ラリーは中世の騎士が領主の突然の招集に対し、いかに早く到着するかを競ったことが起源といわれ、コンサントラシオンはその名残といえる。
このコンサントラシオンという“儀式”は、ある意味“Rally”そのものである。

ちなみに第1回モンテカルロ・ラリーの勝者、H.Rougier(車はTurcat-Mery)の出発地点はパリ。
65年優勝のティモ・マキネンはストックホルムから、70年優勝のビヨルン・ワルデガルドはオスロから、71年の優勝者であり、トヨタのF1監督だったことでも知られるオベ・アンダーソンはモロッコのマラケシュからスタートした。
91年と95年優勝のカルロス・サインツはバルセロナからのスタートだった。
“コンサントラシオン”では、ラリーに参加するために、ラリー以上の距離を走ってモナコに集結していたのだ。

残念なことに、近年のWRC規模縮小化に伴い、コンサントラシオンは現在は廃止されている。
(コンサントラシオンを英語読みすると、「集中、集結」を意味するコンセントレーションとなる。)

速い者が必ずしも勝つとは限らない

サーキットで行われる「レース」は同時にスタートして直接競い合う。F1であれば同じ距離をいちばん短い時間で走った者が勝ち、耐久レースなら同じ時間でいちばん長い距離を走った者が勝ちとなる。
それに対して「ラリー」では、複数のタイム計測区間を1台1台が別々に走行してタイムを計測していき、そのタイムの合計で競いあうところが大きな違いだ。

また、"タイムを競う"と書いたが、ラリー競技における"タイム"は必ずしも"速い"ことを意味しない。
現代のWRCはいわゆる『スプリント・ラリー』でスピードを競うが、ラリー競技全体で見た場合、指定区間を定められた時間で走り、その"正確さ"を競うラリーも数多く存在する。

WRCもかつてはTC(タイムコントロール)方式という、チェックポイント間を指示速度で走る競技システムもあった。TC方式では早くても遅くても減点(ペナルティ)となり、もっともペナルティタイムが少ない者が勝者となる。

現代のWRCも、SSとSSの間の移動時間は厳密に定められ、早く着いても遅く着いてもペナルティタイムがSSの走行時間に加算される。せっかくSSでタイムを縮めても、TC地点にうっかり遅刻などすると、削ったタイム以上のペナルティタイムを課されたりしてしまう。

しかし、速くなくては勝てない

ラリーの勝敗は、時にわずか数秒で決着がつく。
WRCの最僅差記録は2011年ヨルダン・ラリーで、1位のセバスチャン・オジェと2位のヤリ-マティ・ラトバラの差が0.2秒。総走行距離259.56kmで、タイムは2時間48分28秒2と2時間48分28秒4だった。
2011年に記録が破られるまでの最僅差記録は2007年ニュージーランド。SSは18カ所で、合計353.56kmを3時間53分弱かけて走り、1位のマーカス・グロンホルム(フォード)と2位のセバスチャン・ローブ(シトロエン)の差が0.3秒。

さらに遡ると、10年近く最僅差記録ホルダーだった1998年ポルトガル・ラリーでは、28ヶ所のSS、合計380kmを4時間20分かけて走り、1位のコリン・マクレー(スバル)と2位のカルロス・サインツ(トヨタ)の差が2.1秒だった。

1999年アルゼンチン・ラリーでは、1位のユハ・カンクネンと2位のリチャード・バーンズの差が2.4秒。このときは両者ともスバル・インプレッサに乗っていた。1998年、同じくアルゼンチン・ラリーでは、2位のサインツと3位のカンクネンの差が0.7秒。

2003年のラリー・ドイッチュランドでは1位のセバスチャン・ローブと2位のマーカス・グロンホルムの差が3.6秒。ラリー・カタルニアでも、2位のセバスチャン・ローブと3位のマルコ・マルティンの差が0.6秒。

WRCの場合、サーキットレースのように一緒に走るわけではなく、一定の時間をおいてスタートし1台づつ走っていくので、ライバルがどのくらいのタイムで走っているかはゴールしてみないとわからない。最近のWRCでは、GPSの情報からライバルのタイムがわかるようになっているが、それでも数秒差の争いになってしまったら全開走行する以外の方法はないのだ。

違う車、違うタイヤ、違うドライバーが3日間で300~400kmの距離を走って、なぜ数秒の差しかつかないのか、不思議といえば非常に不思議な話だ。

自動車が4つのタイヤを通して動力を地面に伝達する限り、タイヤが路面に接地するハガキ4枚ほどのサイズの面積と地面との摩擦力が、加速でもブレーキでもコーナリングでも、その物理的な限界となる。どんな天才ドライバーでも、その限界を超える運転は絶対にできない。この数秒のタイム差が、いかに限界スレスレで走っているかという何よりの証左だ。

ちなみにF1では、1971年のイタリアグランプリで1位のゲシンと2位のペテルソンの差が史上最僅差の0.01秒だった。このレースは1位から5位までが0.6秒差という大接戦でもあった。超ダンゴレースである。テールツーノーズが普通のサーキットレースならではの記録だ。

1986年のスペイングランプリでは1位のアイルトン・セナと2位のナイジェル・マンセルの差が0.014秒という記録もある。
(注・測定単位が1/100秒と1/1000秒の違いがあるので、ほんとうはどちらが最僅差のレースなのかはわからない)

サファリ・ラリーのような耐久ラリーの要素が強いイベントでは数分、10数分の差は珍しくない。ではその差が安全圏かというと、まったく安心できないタイム差なのだ。タイヤがパンクしたら数分の差など無いも同然だ。抜いた方もゴールするまでは気が抜けない。

なお、WRCのタイム計測は97年まで秒単位、98年以降は0.1秒単位までとなっている(例外もある)。昔はポイント制や、規定時間に対してのペナルティタイムの合計など、いくつかの方式で順位が決められていた。

ラリーカーの速度差

ラリーでは同時スタート、同時走行を行なわないので、記録されたタイムでしか速度差を見ることができない。
ラリーカーの速度の話をするときによく使われるのは、1km当たり何秒早いか遅いかという目安だ。

タイムアタックを開始して、A車がB車より1km走るごとに0.1秒ずつ遅れていたとしよう。仮にこのタイム差が最初から最後まで続いたとしたら、400km走り終えるころには40秒以上差がつく。キロ当たり1秒ずつ遅れていたら、ラリーが終わる頃には何分も差がついてしまう。

何十秒とか何分も差がついてしまうと、その車はいかにも遅いようにも思えるが、こんなふうに考えてみていただきたい。あなたが友人と2台でドライブしていたとする。5km走ったあとに友人の車が0.5秒あなたより遅れたら、それに気がつくだろうか?

戦う相手は自分と自然

抜きつ抜かれつのレースと違い、ラリーの場合は戦う相手が直接見えない。相手が見えない以上、できることは「どこまでアクセルを踏めるか、どこまでブレーキを我慢できるか」といった、自分の限界との勝負になる。

そして自然との戦いだ。雨天でのラリーの場合、スタート順によって雨量が多かったり少なかったり、時には途中から降り始めたり、やんでしまったりということが起こる。数年前までのWRCでは、天候不順の時はスタートの直前までサービスパークでタイヤチョイスに悩むドライバーの姿が見られた(現在は大幅にタイヤ交換が制限されているため、そういった光景は見かけない)。タイヤの選択ひとつで天国から地獄に突き落とされたり、またその逆もあるのだ。

2003年サンレモでは、最後のふたつのSSを残し上位陣の車は全員ドライタイヤを履いていた。ひとりだけインターミディエイト(ドライとレインの中間)タイヤをチョイスしたのはジル・パニッツィ。はたしてパニッツイは、たった2カ所のSSで1分30秒差をひっくり返して3台をごぼう抜き。2位を得た。

ラリーカー

WRCのトップカテゴリーは1973年から1982年まではグループ4、1983年から1986年まではグループB、1987年から2010年まではグループAと呼ばれるカテゴリーの車両で競技を行なっていた。現在はグループRというカテゴリーで規定された競技車両を使用する。

カテゴリーはRC1~RC5とRGTに分けられ、それぞれのカテゴリーの中で過給の有無、重量などで2~3種のクラスに分かれているカテゴリーもある。
競技クラスのWRCはRC1、WRC2はRC2のカテゴリーの競技専用車によって選手権を競う。

1997年から新設されたWRカーはレギュレーションによってFF車の4WD化、ターボ装着など大幅な改造が認められているので、このような高性能車をラインナップに持たないメーカーでも参戦できるようになっている。

ラリーカーは競技中に一般道路も走るので、FIAの定める車両規定と共に、開催国の交通法規に適合しない車はWRカーといえども走れない。マフラーの触媒なども当然付いている。

数々の名車たち

市販車を使って行なわれるラリーでは、さまざまな車が競技に出場した。
ラリーでの成績がメーカーや車のイメージアップにつながり、販売実績にも影響する。一般の人にもっとも有名なのは、WRCになる前のモンテカルロ・ラリーで優勝している、ミニ・クーパーかもしれない。

今では想像できないが、メルセデス・ベンツ450SLCなど、およそラリーに出場するとは思えないような車が走っていたこともあり、しかもラフロードで悪名高いコートジボアールで2回優勝している。
F1で常勝のフェラーリは、WRC以外のラリーでは勝ったこともあるが、WRCでは未勝利だ(308GTBの2位が最高位)。変わった車といえば、プジョー504のピックアップ・トラックやダッジ・ラムチャージャー、レンジローバーといった重量級4WDも走っていた。

1936年から68年間にわたり2152万9464台が生産され、03年、とうとう生産を終了したフォルクスワーゲン・ビートルも、ラリーではかなりたくさん走っていた。重量級サルーンのメルセデスや、車高の高いビートルがフルカウンターで激走している痛快無比な姿を想像してみていただきたい。今ではこのような車をラリーで見ることはできないが、WRCは数々の名車を世に残した。

90年代は日本車の天下

日本車は昭和32年(1957年)、トヨタがオーストラリア1周ラリーに参戦。日本車としては初めての海外ラリーに出場した。トヨペット・クラウン・デラックスが16,000キロに及ぶ過酷なラリーを102台中総合45位で完走し、外国車部門で3位に入賞した。

翌年の1958年には日産も初めて海外のラリーに参戦した。WRC制定の3年前、1970年のサファリ・ラリーで510ブルーバードが念願の総合優勝を果たしている。同じころ、三菱も海外ラリーへの参加を始めた。

当時の日本勢は、サファリのような荒れた路面や5000kmを越えるような長距離イベントでは強かったのだが、スピード勝負のスプリントラリーではヨーロッパ勢に歯が立たなかった。参戦する意義も、速さを競うというよりは、耐久性のテストという意味合いが強かったのだ。

WRC自体も、現在のような全戦参加という形態ではなかったので、どのメーカーも勝てるラリーを走るという参戦方法だった。
車両規定がグループAに変わり、1990年代に入ると、参戦メーカーが減ったこともあるが、日本車の活躍が目立つようになった。これは高性能車を低価格で提供できる、日本の自動車メーカーの長所をフルに生かしたともいえる。

ランチアが撤退した1993年以降、99年まではトヨタ、三菱、スバルの天下であった。

他の日本のメーカーでは、スズキが02年からJWRCに参戦しており、好成績を上げている。メーカーの意向としては、JWRCで実力をつけ、いずれはWRCに参戦したいということのようだ。スズキと並ぶ軽自動車メーカーの双璧、ダイハツは80年代後半から90年代初めにシャレードがサファリで何度かクラス優勝している。
現在は乗用車生産から撤退しているいすゞもアスカやジェミニで参戦していた。

ホンダは現在まで、メーカーとしてのWRC参戦はない。創業者がラリーを「泥遊び」と馬鹿にしていたという話もある。ただ、ホンダ車がまったく走っていないということはなく、プライベーターのシビックやインテグラなどを見かける。

ラリードライバーの"神業"

WRCはアスファルト・非舗装路・積雪路など、多彩な路面コンディション・環境で行われる。崖っぷちの道路など、一歩間違えたら命に関わる事故を招くような場所も少なくない。そんなところをコースアウト寸前のスピードで車を横向きにして走らせるドライバーたちは、凄いの一言だ。

崖からフロントタイヤが外にはみ出していたり、車1台分しか空いていない観客の中をドリフトしながら走っていくのだから、もう恐れ入る他はない。
元F1ドライバーのジャン・アレジがこんな発言をしていた。「F1はG(加速やコーナリング時にかかる重力のこと)に慣れてしまえば簡単さ、本当に難しいのはラリーだ」

あるレポーターは、「WRCを見に行くと、最初の5台ぐらいが走っていってもタイヤの跡が4本分しか残っていない。つまり時速100km以上のスピードでドリフトして走っているのに、数センチのズレもなく同じラインをトレースしている。トップドライバーはどのラインがいちばん良いタイムが出るかを知っていて、寸分のズレもなくその上を走っている。まさに神業という他はない」と書いていた。(これは1990年頃の話。その後は明らかに違うラインを走っていたり、少し状況が異なる)。

ドライバーは出身国によって特徴がある

WRCのドライバーは、その出身国によって得意な路面・不得意な路面の傾向が顕著に現れる。
フィンランドなどの北欧系ドライバーはグラベル(未舗装路)に強く、フランスやベルギーなどのドライバーはターマック(アスファルト)に強いといった傾向がある。

スウェディッシュ・ラリーは1950年から開催されているが、81年にハンヌ・ミッコラ(フィンランド)が勝つまで、優勝者は全員スウェーデン人だった。2004年に初めてフランス人のセバスチャン・ローブが優勝し、北欧伝説に終止符を打った。しかし2005年の勝者はノルウェーのペター・ソルベルグ。北欧伝説復活である。

イギリス・イタリア・スペインは路面を選ばない傾向があるが、優勝者の人数自体が少ないので、これはむしろ個人の資質のほうが大きいかもしれない。また、イタリアとスペインはかつてミックスサーフェス(舗装路と未舗装路が混在する)のイベントだった。

フライング・フィンの系譜

ラリー王国といえばフィンランド。
人口わずか500万人余にすぎないフィンランドだが、2005年までWRCの3回に1回はフィンランド人のドライバーが勝っていた。フィンランド人ドライバーの勝利数は通算177勝(2017年2月まで)。まさにラリー王国フィンランド。フィンランド人ドライバーが、“フライングフィン(空を飛ぶように速いフィンランド人)”と呼ばれる所以だ。

ラリーに限らず、ミカ・ハッキネン、キミ・ライコネンらF1ドライバーもあげはじめたらきりがないし、陸上オリンピックで9個の金メダルを取った“元祖フライングフィン”パーボ・ヌルミや、スキー・ジャンプ競技の“鳥人”マッチ・ニッカネンなど、他のスポーツでも大勢の名選手を輩出している。

なぜこれほどまでフィンランド人ドライバーが強いのか。秘密でもなんでもないが、子供のころからトラクターの運転を始め、凍りついた湖の上で滑るトラクターをコントロールする術を身につけたり、普段から積雪路や凍結路で車を運転しているため、車を滑らせながら運転する技術に長けていることが大きな理由だ。

また、同胞意識が強く、モータースポーツの選手育成システムが有効に機能しており、有力チームにフィンランド人が多く加入していることも挙げられる。

冬が長いのでサッカーなどの競技はあまり発展せず、団体競技より個人競技のほうが良い成績を残しているようだ。
そしてもうひとつ。

フィンランドの隣国スウェーデンは国別勝利数が43勝と歴代3位だが、スウェーデンにはインゲマル・ステンマルクというアルペンスキーで無類の強さを誇った選手がいた。
ワールドカップ通算86勝、1シーズンすべてのレースでの勝利を含む14連勝(オリンピックも含めると15連勝)という前代未聞の大記録を残すなど、その強さはケタはずれだった。
ステンマルク全盛期、ライバルたちは異口同音に言ったものだ。「僕らにとっては、2位が1位だ」と。ステンマルク自身はこう言っている。「2位じゃだめだ。1位でなければ」。
1位を取れず2位になったとき、ステンマルクは何度も表彰式をすっぽかした。他の選手なら喜んで表彰台に登るだろうが、ステンマルクは1位を取れなかったことが許せなかったようだ。

同じ時代にワールドカップを戦っていた日本人レーサーがこんなことを言っていた――ステンマルクは他のレーサーより、勝とうとする意志がケタ違いに強い――と。

4年連続でドライバーズチャンピオンを獲得したトミ・マキネン、00年と02年のドライバーズチャンピオンで現在のWRCでも最速ドライバーのひとり、マーカス・グロンホルムの強さは、まさにステンマルクを髣髴とさせるものだった。2位になるくらいなら転んだほうがいいと言うステンマルク、優勝かリタイアかという両極端な結果を多く残すマキネンやグロンホルム。03年のドライバーズチャンピオン、ペター・ソルベルグ(ノルウェー)もそうなのだが、北欧人の「勝利」に対するモチベーションの強さは尋常ではないものがあるのかもしれない。

フランス人ドライバー

フランスも多くの名ドライバーを輩出している国だ。2002年からセバスチャン・ローブが、2010年からセバスチャン・オジェが勝利を積み重ね、国別ドライバー勝利数1位の座についた。

積雪路やグラベルに強い印象がある北欧ドライバーに比べ、“ターマックキング”ジル・パニッツィをはじめ、コルシカで6回勝っているディディエ・オリオール、フランソワ・デルクールやフィリップ・ブガルスキーといったフランス人ドライバーは舗装路での強さを誇っている。

2004年から2012年まで9年連続でドライバーズチャンピオンを獲得したセバスチャン・ローブも、初勝利から5回目の優勝までは全てターマックラリーであげていた。ブルーノ・ティリー、フレディ・ロイクス、フランソワ・デュバルといったベルギー人もフランス人ドライバーに似て、ターマックを得意としている。フランス選手権がターマックのみで行われているのも大きな理由かもしれない。

ところが、「ターマックなんか大嫌いだ。グラベルのほうがずっと好きだね」というデルクールや、ターマック専門と思われるのが気に入らず、オールラウンダーになりたくて三菱と契約をしたというパニッツィのように、周りの評価と本人たちの意思は別のようだ。ターマックに強かったローブも、2004年以降はまったく路面を選ばないオーラウンダーに成長した。

子供のころから運転に親しむ北欧系とは違い、もともとは体操の選手で、21歳になって初めてラリーと名のつく競技に出場したというローブや、救急車の運転手だったオリオールなど、「方向転換」をしてやってきたドライバーがフランス系には多いような感じがする。パニッツィの前職は大工だ。

女性ドライバー

WRCは女性選手が男性選手と同一のフィールドで戦い、勝利をおさめたことのある、おそらく数少ないスポーツのひとつだ。

フランスの女性ドライバー、ミシェル・ムートンは、コ・ドライバーのファブリツィア・ポンスとの女性コンビで1981年サンレモで初勝利。翌82年はアクロポリスなどで優勝し、最終戦までドライバーズタイトルを争い、年間ランキング2位を獲得している。ちなみにこの年ムートンは3勝、年間ドライバーズチャンピオンを獲得したワルター・ロールは2勝だった。WRCでは通算4勝。ミシェルの勝利はフロックなどではなく実力で勝ち取ったものだ。

またラリー界には女性のコ・ドライバーも多い。1973年、記念すべきWRC第1戦モンテカルロ・ラリーで、優勝したルノー・アルピーヌA110のコ・ドライバーは、Bicheというニックネームの24歳の女性だった。

フランソワ・デルクールは、私生活でのパートナーでもあったアンヌ-シャンタル・パウエルや、カトリーヌ・フランソワといった女性のコ・ドライバーと組んでいたし、02年のケネス・エリクソンはパリ・ダカールへの参加でも知られる女性コ・ドライバーのティナ・ソーナーと組んでいた。

ティナはドイツの女性ドライバー、イゾルデ・ホルデリートと共にレディス・カップを2年連続で獲得したり、ウーベ・ニッテル、トマス・ラドストロームらとWRCに出場している。また、ユタ・クラインシュミットやアリ・バタネン、コリン・マクレーと共にパリ・ダカールへ出場している。

ファブリツィア・ポンスもアリ・バタネンのWRCとパリ・ダカールのコ・ドライバーを務め、またピエロ・リアッティのコ・ドライバーとして97年のモンテカルロ・ラリーで優勝している。

日本人ドライバー

WRCに出場した日本人のドライバーは大勢いる。ざっと調べただけで100人ほどが出場している。プライベーターで参加できるラリーならではともいえるが、入賞となるとその数は多くはない。
篠塚建次郎が2回、コートジボアールで優勝しており、これがWRCに記録された日本人の勝利数のすべてとなる。ただし、この2回のラリーにワークスカーは1台も参加していない。

耐久ラリーの要素が強いサファリやコートジボアールでは日本人ドライバーは好成績を残しているが、スピード勝負のスプリントラリーでは日本人の勝者はまだいない。96年RACラリーで神岡政夫が2位に入賞しているが、このときはW2L選手権として開催されている。

日本人ドライバーの中では抜きん出た実力を持つ新井敏弘も、WRCにWRカーで参戦した時期もあったが、チャンスを生かし切れなかった。00年アクロポリス、02年キプロスのいずれも4位が最高位だ。

新井はPCWRCに02年から参戦し、05年は見事チャンピオンに輝いた。これは四輪モータースポーツ史上初めての日本人世界選手権チャンピオンである。
では今後、日本人ドライバーは活躍は期待できるのだろうか?

現在は目立ったドライバーがいないが、競技人口だけなら日本は世界有数のラリー大国である。日本ではラリーは見るものではなく、するものなのだ。
車にしても、ランサー・エボリューションやスバル・インプレッサといった競技に使える車が手頃な価格で手に入る国は、世界広しといえども日本だけだ。

問題はラリーを許容する風潮が世間と行政にないことと、若い競技者を育てる環境がないことにある。
ラリー・ジャパンの開催が起爆剤になり、日本人のWRCドライバーが出てくることを期待したい。

ドライビングの変遷

ラリーのドライビングの魅力は豪快なドリフトだ。一見アクロバティックなこの走り方も、実は破綻をきたしにくく安全マージンが高い走行方法である。カーブのきつさが予想と違ったり、コーナリングの途中に車の挙動が変わったときなどに対処がしやすい走り方だ。

ドライビングは年々変化していて、03年のドライバーズチャンピオン、ペター・ソルベルグは極力ドリフトをしないドライビングが特徴だ。リアが流れればそれだけタイムが落ちるため、安全マージンを削ってでも可能な限りタイヤのグリップを生かす、というスタイルだ。セバスチャン・ローブやマルコ・マルティンも同じようなスタイルである。

90年代に活躍したコリン・マクレーやトミ・マキネン、カルロス・サインツといったドライバーは、リアを流すドライビングを主体にしており、勝敗はともかくスピードではペターら新世代のドライバーから顕著に遅れをとるようになっていった。それがはっきりと結果に出た“世代交代の年”が03年シーズンだったといえる。

年齢的に“旧”世代のドライバーで、スピード勝負でも引けを取らないのはマーカス・グロンホルムただひとりだった。

ドライバーがふたり

WRCのテレビやビデオを見ると、誰かがしゃべっている声がずっと聞こえている。車内を映すカメラがあれば、運転席のドライバーの他に、もうひとり同乗者がいるのが見える。
F1などのようにドライバーひとりが搭乗して運転するレースとは違い、ラリーやレイドなどでは、車を運転するドライバーと一緒に、コ・ドライバーと呼ばれる選手が乗って競技を行う。
頭に『コ』が付くのは、旅客機のようにパイロットが二人乗っている場合、副操縦士を『コ・パイロット』と呼ぶのと同じだ。

ラリーは走行距離が長いので、ドライバーが自分で地図を見ながら運転することはできない。競技区間では、いかに勇敢なドライバーといえども先の見えないコーナーに全開で飛び込んで行くわけにはいかない。そこで「道案内」が必要になる。
ラリーは本番前にレッキという事前走行を行い、専用のノート(ペースノート)にカーブの方向や曲がる角度、道路の幅、注意して走行するところなどを書いておく。

コ・ドライバーはSSでの走行中に、レッキで作成したペースノートを読み上げてドライバーに伝える。
ドライバーはペースノートを信じて崖っぷちぎりぎりを走り、コ・ドライバーはその運転技術を信頼してペースノートを読んでいくのだ。

ペースノートの出来が勝敗を左右する

昔は無制限にレッキができたため、正確なノートを作ることができた。極端な例では、ラリー前に数週間もレッキをして完全にコースを覚え、ペースノートを使わず優勝した選手もいる。

現代のWRCではレッキの回数は制限され、レッキ中は最高速などをGPSで監視されている。少ないレッキでいかに正確なノートを作れるかがコ・ドライバーの腕の見せ所だ。また、ラリー本番とレッキではスピードが全く違うため、コ・ドライバーはSS中もペンを持ち、常にノートを修正している。
ノートが正確であればあるほどドライバーは自信を持って全開走行できるし、危険も回避できる。ペースノートの出来が勝敗を左右すると言っても過言ではない。

なお、レッキがなくペースノートも使わないシークレットラリーという方式もある。

多彩な競技コンディション

公道を使用していろいろな国で行われるラリーは、使われる道路もさまざまだ。
ターマックと呼ばれるアスファルトの舗装道路、グラベルと呼ばれる未舗装道路のふたつが主になるが、スウェーデンでは積雪路や凍結路が使われる。スウェディッシュ・ラリーは雪が少ないと中止になってしまう。

かつてはミックスサーフェスといって、ひとつのラリーにターマックとグラベルが混在することもあったのだが、現在のラリーではターマックならターマック、グラベルならグラベルと、ラリーによって分かれている。

ひとくちにターマックやグラベルといっても、実際にはさまざまな路面がある。モンテカルロは一応ターマックラリーということになっているが、天候によっては雪道が大半になってしまうこともある。ドイツのように、戦車の訓練場を使うため荒れたコンクリート路面のところもある。
カタルニアはターマックラリーだが、舗装されていない道路脇をショートカットしていくラリーカーが多いため、だんだん砂利が道路に掻き出されていき、後から走ってくる車は滑りやすくなってしまう。秋のコルシカのように、落ち葉が路面を覆って滑りやすくなるところもある。

グラベルはもっといろいろなコンディションがある。
丸い小石で道路が覆われ、非常に滑りやすいため、別名ボールベアリング・ロードとも呼ばれるオーストラリアの道。
大きな尖った石がごろごろ転がっているキプロスやギリシアの道。アクロポリスではラリー前にグレーダーをかけて整地することもあるが、こぶし大の石がごろごろ転がっていてかなり荒れていてるため、悪路ポリスなどと呼ばれたりする。

路面が波を打ったようにうねっているニュージーランドの道では、ラリーカーがリズミカルに踊るように走り抜けていく。見ている方は優雅なダンスのようにも見えるのだが、リズムに乗れない瞬間が一瞬でもあれば、クルマは道路から弾き出されてしまう。

晴れているうちはよいのだが、ひとたび雨に降られると泥沼のようなマッド路面になるポルトガルの道では、フロントガラス以外は泥まみれのラリーカーが走っていく、というか、のたうち回っているようにも見える。

アフリカでは道無き道を、シマウマやガゼルを避けながら走る。サファリ・ラリーは最高速度が260Km/hを超えたという。
北欧の針葉樹林の中に切り開かれたスムーズな路面を、時速200kmを越えて駆け抜けるフィンランドや雪のスウェーデン。
路面状況も様々なら、気温もスウェーデンではマイナス30℃まで下がり、アクロポリスでは40℃以上になる。気温が40℃を超えると、車内の温度は60℃にも達する。
まだ夜が明けぬ暗闇や、日が落ちて真っ暗になったSSを、ヘッドライトの明かりとペースノートだけを頼りに信じられないようなスピードで走っていくこともある。

単一カテゴリーの競技で、これほどコンディションに変化のあるスポーツは他に類を見ないだろう。
ラリーで使われる道路は、コルシカや南ヨーロッパの山岳地帯のように1歩間違えれば崖の遥か下まで転落してしまうような場所にあることも少なくない。逆にいえば非常に景色のよいところで行われることが多いのだ。これもまた、ラリーの大きな魅力のひとつである。

ドライバーがマシンを自分で修理

クラッシュ=リタイアのサーキットレースとの大きな違いのひとつは、マシンがコースオフしたり横転して破損しても、修理してラリーを続行することが多々あることだ。

ドライバーやコ・ドライバーが道路脇でマシンの修理をする姿は珍しくない。98年のアルゼンチンではスバルのコリン・マクレーが岩にタイヤをヒットさせ、サスペンションを曲げてしまった。マクレーとコ・ドライバーのニッキー・グリストは曲がったロアーアームを外して大きな石を叩きつけて伸ばし、応急修理するとTCに向かい、時間切れの2秒前にぎりぎり到着。しかもそのまま走った次のSSでベストタイムを奪った。

他に変わった"応急修理"といえば、大雨のラリーで動かなくなったワイパーにひもを結んで手動で動かしたり、アクセルワイヤーが切れたエンジンのスロットルにこれもひもを結んで手で引っ張ってクルマを走らせたり。

ラリーのクルーはサービスパーク以外ではタイヤ交換なども自分たちで行い、修理が必要な時は携帯電話でメカニックの指示を仰ぎながら自分たちで行う。

メカニックはプロ中のプロ

ラリー中に設けられている車両整備の時間は1回20分だ。パーツそのものはアセンブリ交換で済むが、車体やドアが大きく変形していることも珍しくないため、大きなハンマーでガンガン叩いて直すことも多い。

修理のシーンはテレビでもよく放映されるが、少ない時間を秒単位で読みながらメカニック(テクニシャン)たちはたった20分で、ボロボロに壊れたマシンをラリーを続行できるように仕立て直してしまう。彼らも筋金入りのプロだ。

Posted by takumi-ya